ちょうど今から18年ほど前、僕はセゾン・グループのクリエイティブ・エージェンシーであるSEDIC(セディック)に在籍していた。この会社は音、映像、イベント、TVCMなど、当時のセゾングループの広告表現の殆どを手がけていた。僕はその中でプランニング、プロデュースを担当していた。もちろん現場の実施立会や予算が少ない場合は自分で実施もしていた。当時勢いのあったグループだけに様々な企画がすぐに実現する良い時代であった。その中で環境について研究をする仕事と機会が与えられ、内外の環境関連の資料を読みあさる事が多かった。当時はまだまだ環境についての認識や共通の定義・基準が曖昧な時期で、ニューサイエンス誌に掲載された「人間は地球の癌」的なものから「とりあえず社会的責任を回避」的なものまでと、曖昧な時代であった。そんな中でセゾン・グループの環境に対しての姿勢の一つとしてドキュメンタリー映画「地球交響曲ガイヤシンフォニー1番」を制作することになった。その制作現場を担当することになり制作進行していく中で環境に対して自分なりの認識が具体的な形になっていったように思う。
この映画は龍村仁監督によるもので龍村仁監督らしい優しさとしっかりしたメッセージを持っており、「地球と人間の関係」を考える上で素晴らしい作品に仕上がっておると思う。
この映画は龍村仁監督によるもので龍村仁監督らしい優しさとしっかりしたメッセージを持っており、「地球と人間の関係」を考える上で素晴らしい作品に仕上がっておると思う。
もし宜しければ制作会社オンザロード http://www.otrfilm.com/1cast.html で内容をご覧になっていただきたい。
話は変わるが、無印良品とは西友の事業部の頃からのつき合いである。細野晴臣さんの書き下ろしで始まったオリジナルBGMの制作を通しての関わりであった。ある時、宣伝担当者から、何か新しい企画はないかとの話をもらった。ちょうど無印が西友から独立した頃である。僕は当時まだそれほど話題にはなっていなかったがキャンプ場に集まるファミリーのキャンプ熱を昔の野音ロックフェスに例えて説明し、ファミリー・キャンパーの為のキャンプイベント企画を提案した。担当者は「それやろう」と即断し「無印良品サマージャンボリー」と銘打って年に一度始めることになった。これは生活全体を扱う無印良品として「生活の原型」であるキャンプを支援することによって、「家族のふれあい」「自然とのふれあい」「地域とのふれあい」をお客様と無印が共通に体験し、認識、発展させるすることを目的としたテーマ・イベントであった。通常このような話はなかなか理解されない話ではあるがチャレンジ精神が高く、高い企業文化度を持つ無印良品だったから実現した話である。
このイベントはその後22年間継続された。
このイベントはその後22年間継続された。
現在はこのイベントは終了しているが、一つの企業が22年の永きにわたり商売に直接的でないイベントを継続することは日本ではとても珍しい事だと思う。無印良品という意志を持った企業の文化と創業社長である木内政雄氏によるところが大きいと思う。また時代や社内もそれを支援する空気があった。このサマージャンボリーも8回を迎えた頃、毎年参加者が増え抽選になり、多くのお客様に残念な思いをさせてしまうほど盛況な状態で場所の確保も難しくなってきた。
ガイヤ・シンフニーとサマージャンボリーを実施する中。環境についての話題やTV特集などが巷に増えていった。植栽、資源再生、省エネ、CO2等様々な事柄がニュースやTVを賑わすようになってきた。そんな中アマゾンの熱帯雨林の伐採のニュースが流れ「森の乱伐採はけしからん」的なことが報道され、画面にはブルドーザーが森林を切り開いている画面が映し出され、急激な森林破壊は人類にとって大問題である的なことが報道されていた。
ガイヤ・シンフニーとサマージャンボリーを実施する中。環境についての話題やTV特集などが巷に増えていった。植栽、資源再生、省エネ、CO2等様々な事柄がニュースやTVを賑わすようになってきた。そんな中アマゾンの熱帯雨林の伐採のニュースが流れ「森の乱伐採はけしからん」的なことが報道され、画面にはブルドーザーが森林を切り開いている画面が映し出され、急激な森林破壊は人類にとって大問題である的なことが報道されていた。
大問題ではあるが、スコットランドもイングランドもヨーロッパ各地は昔は広大な森に覆われていた。産業革命後に燃料としての森の伐採が行われ、牧草地や農地に変わっていった経緯がある。日本も同じように大きく開発されてきた。その先進国が今度は自分の空気について自国がやってきたことを棚に上げ途上国を揶揄している。おかしな話であると見ながら思った。先進国の殆どは高緯度に属している。亜寒帯エリアもしくは寒帯である。日本は温帯、アマゾンは熱帯である。温帯の日本ですら雨も多く植物の生育は人間をも駆逐しかない強さを持っている。アマゾンの人々も現在先進諸国と呼ばれる国々の人々も同じように生活のため、腹を満たすために仕事として森林を伐採している。それしか方法がないのである。
このように書くと森林伐採賛同者のように聞こえるがそうではない。時代差こそあれ同じ目的のために同じ事をしてきた人々が後から来るものを批判することは出来ないと思うのである。また自国の論理を気象環境、自然環境の違うエリアに持ち込むのはいかがなものかと思うのである。日本は亜熱帯のそれも水に恵まれた国である。ヨーロッパやアメリカとは環境が異なる部分が多い。それを同じ論理で同様に考えることは難しいと思う。僕は森林伐採が良いと言っているのではない。森は出来るだけ保護し生態系の維持は地球全体で重要であることは周知の事実である。問題は自然を守ることによって土地の人々の正当な労働が生まれることが重要で、一方的な援助や寄付などには人権無視のような違和感を覚えるのである。
そのようなことが事があったある日、山梨の山間部のキャンプ場に行った。小さいけれどとても良く管理され気持ちの良いキャンプ場だった。ゴミの処理をしていた初老の方に「ありがとうございます。大変ですね」と声をかけながら話し始めると(1)夏場だけここの仕事を一人でしている。(2)朝から晩まで働いても小遣い程度だけど、子供達が喜ぶのがうれしいのとやる人間がいないからやっているが、自分がいなくなったらやる人がいなくなる。
(3)ここも昔は無料だったけど500円取るようになったら、ゴミを置いていく人や文句を言う人が増えたので貰わなかった方が良かった。などの話をした。「そうかここにも同じような問題があるんだ」と思考が短絡な僕は、先日見たアマゾンのTVニュースの印象が蘇りキャンプ場とオーバーラップした。それは利用する人間の『我が儘』である。
0 件のコメント:
コメントを投稿