僕がキャンプを始めたのは7歳。もっともこれは毛布と缶詰とおにぎりを持って、宿と道を挟んだ反対側の岩場で過ごした志賀高原の思い出である。キャンプというより野宿。子供たちだけの小さな冒険であったが虫の声や星空、外から見る宿の光、皆の間をすり抜ける風の冷たさに全く新しい体験を感じたすばらしいものであった。一晩泊まったのか怖くなって宿に戻ったのか記憶にはない。場所は志賀高原の熊ノ湯よりさらに上の硯川ヒュッテだった。今日のように草津まで抜ける道は出来ておらず。横手山、白根山に向かう最終地で人家はヒュッテだけだった。とても美しくまた静寂がつつむ世界だった思い出がある。東京生まれの僕が今でも街より自然の中が好きなのはこの経験が大きいと思う。
戦後間もない、高度成長が始まったばかりの大変な時代に
毎年、僕を1ヶ月志賀高原に置いてくれた父と母に今でも感謝している。
それからは自然と接することなく受験勉強と街に興味を持つ時代が20年近く続く。
ワーナー・ミュージックでレコードのディレクターの仕事ついた頃、毎日深夜の仕事が続いた。もっとも昼遅く出社して深夜仕事をする、レコード会社のディレクターとしては当時は当たり前の生活だった。
そんなある日、僕と組むことの多かったミキサーが一生懸命読んでいる本を覗いた。
釣りの本だった。ルアー・フィッシングが盛んになり始めた頃だった。「これおもしろいの?」と聞いたところ「今度行こうぜ」と言われ富士五湖の一つ精進湖に
バス釣りに行くことになった。
ミキサー氏、仲の良いミュージシャン、作詞家、編曲家とかなりの大所帯で出かけた。
その当時なのでバス・ボートも船外機もなく、手こぎボートを漕ぎながら1日過ごす釣りだった。始めたばかりなのに良く釣れ、あっという間に1日が経つほど楽しい事がわかった。その釣行の帰り不思議な感覚を覚えた。いつも披露している頭の中が空っぽで体だけが疲れている、それも心地よい疲労感でいっぱいという感覚だった。考えてみればスタジオと会社で打ち合わせとレコーディングという人間関係ので成り立つ仕事は体はほとんど使わない、頭だけの仕事である。釣りは全く逆で人と接することは少なく、何をするもの自分の体が必要でまたその能力が要求される。頭や神経を使うがストレスになるような状態はない。
この気持ちよさのために毎週アウトドアに向かう日々が始まった。その後バス・フィッシングは2年ほど続けたが、山の中に入ってみたくなりフライフィッシングに転向する。